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◎平成28年度東京都広報コンクール 最優秀第一席 ◎全国広報コンクール2017 読売新聞社賞(映像) 映像部門3席 ◎地方の時代映像祭2017 「選奨」受賞作品 「私は今、戸越銀座商店街に来ています。こちらでは今日ぼんぼん廻りが行われていてたくさんの人で賑わっていますが、実はここ、70年前の戦争では大きな被害を受け、焼け野原となった場所だったんです」 「戸越銀座商店街で行われたぼんぼん巡り。地域の方々が描いた約300基の灯篭が並べられ、この町の賑わいを印象付ける平和の灯が灯されていました。今では面影すら感じませんが、70年前の戦争で、町は一面焼け野原だったという悲しい過去がありました」 「私たちに全くの軍国主義教育を叩き込んだわけですから、他の考え方なんていうのはできなかったわけですよ」 「無我夢中ですからね。人どころでは無いですよ。自分たちがいつやられるかわからないんだから」 「焼夷弾の塊がね、屋根から滑ってきたんです。四軒長屋のあばら屋根にささってくれれば良かった。それで屋根から滑ってきて、お袋の首がなくなっちゃったんです。 「五反田駅は、今の五反田駅と同じように高かったんです。五反田駅の向こう側も全部見えるんですよね。そのくらい、一木一草無い焼け野原になりました」 「すすで真っ黒な顔をしてね。それでも、家族を見て本当にニコッと笑ってね。あの顔は忘れられないですね」 「防空壕の蓋を開けて、母が出てきたでしょ。本当に『ただいま』も言えなかった」 「絶対に助けてくれと言ったと思うんですね。お母さんも必死に守ろうと思った。しかしね・・・許せないんだよ。焼夷弾がね浴びればね・・・だから、上から落ちてくる爆弾とか焼夷弾。無人機を使って落とすっていう事は絶対に許せないですね。そう思っています。私は泣きながら今も絵を描いている」 「昨年の夏、私は戦時中に中国へ渡っていたという満蒙開拓団の名前でしられる、満州興安東京荏原郡開拓団の生還者の方、ご遺族の方にお会いしました」 「うちのじいさんが、武蔵小山商店街の真ん中あたりで、日露の代理店みたいなのをやっていた。それで、当時、物資が無いでしょ。商売にならないわけ。それで、国策で食べ物をこしらえなきゃいけない。そういう仕事で開拓団を結成して、満州で生鮮産品、野菜とかいろんなものを作って日本へ送ると。目標は100トンかな。そのくらい送ろうと。じゃあ、国のために送ろうと。いうことで、ここで募って行ったんです」 「第二次世界大戦の最中、日本は朝鮮半島や樺太の半分をその領土としており、中国本土にも勢力をその延ばしていた。満州国をその支配下におさめていた日本は、広大な土地がある満州での食糧増産を目論んだ。多くの人々が新たな地での生活を夢見て海を渡った」 「飯白さんは実際に満蒙開拓団として行かれていたわけですよね?」 「家族としてね。親父、お袋について行ったんです」 「上は何歳で、下は何歳とか決まりはあるんですか」 「武蔵小山商店街の商店主がほとんど主体で行ってますから、これはちょっと他の開拓団、農業の開拓団とは違う所だったんですね。だから商店主が開拓団の団員として、その家族として私たちが行ってるんです。関東軍というのがあってね。いわゆる満州、今の中国の東北ですけど、その時は満州国と言ってね、昭和6年かな?1931年に満州事変が起きて、それでその翌年に満州国ができて、実際に実権は日本が握ったわけだ。そういう所で、いわゆる満蒙は日本の経済を含めて、生命線だという言い方ね」 「一番の目的は食料の増産ですよ。国からのあれで。それで百姓もやったことの無い商店主がみんな国のために野菜でも何でも作ろうということで、満州に行ったんです」 「武蔵小山商店街商業組合の理事長山崎真一を団長とした開拓団、合計1,039人が満州に渡った。山の手の五大商店街のーつといわれるほど賑わっていた武蔵小山商店街だが、時代の波におされ、店を営むことができなくなった店主たちが満州に農業移民として入植を決めたのだった」 「武蔵小山の第13次東京開拓団っていうのは、昭和19年に行っているんですね。昭和19年って言えば敗戦の1年前。で行ったのは4月だけどもまだ、寒いくらい。そこから耕して初めて覚えると言ったって、一年で終わっちゃったんですからね。実際には一年半くらいでしたけどね・・・」 「僕からするとじいさんかな。その家族は、8人・・,一番下が、名前もわからない二人がいたのかなと。そうすると、開拓団引き上げの時に殺されたり、自決したのが8人・一以上いたのかなと。そういう状態でしたね。引き上げてきたのは、開拓団で、僕からするとばあさんとおばさんと二人しか帰ってこない。親父は満州でソ連兵に捕まったから、シベリアへ送られてそれでも1年遅れで日本に帰ってこれたから、そういう状態。全滅の家族っていっぱいいますから。全員殺されたり。いろいろあったから」 「田邊さんは日本が戦争の時に、中国へ行かれていたと伺ったのですが?」 「私は17年に出たんですね。内地に居れると思っていたんですよ。それが結局向こうに二日目の晩に初めてわかったんですよ」 「第二次世界大戦以前の昭和12年より、日本は中国を相手に日中戦争を繰り広げていた。陸軍に入隊した田辺さんは、行く先を告げられないまま、中国への戦いに身を投じることとなった。中国本土での戦いは幟烈を極めた。田辺さんは満州から南へと進攻し、中国大陸を縦断していったという」 「うちの部隊は、駐留して警備する部隊じゃなかったですから、戦闘部隊ですから、絶えず前へ前へ。あれされたんです。一緒にいたのがやられたのがわかっているけれども、それを助けることができないんですよ。逃げなきゃ自分が今度はやられちゃうから。私の兄が戦死しているんですよ。こういう状態だと死体収容もできないんだなと思ってね。だから、うちの兄貴も死んでいるんですけど帰って来た物を開けてみると、入っているのが箸なんですよ。遺骨じゃないの。ですから収容できないんですよ。死んだら。それよりも逃げなきゃいけないからね」 「田辺さんが所属した支那駐屯歩兵第三連隊。その記録を留める戦誌には2,338人の戦没の記録が記されている」 「収容してやれないんですよ。やったら自分がやられちゃうからね。だから、頼むよって言って悪いけど行くよって言って。その時は仲間がやられた時が本当に辛かったですよね。死体収容もできないしね。だから、普通だとね、ここから(手首から上を)取るんですよ」 「それは仲間だから(一緒にいたいと)」 「そう。でもそれができなかったのもいるんですよ。まだ動いているのにね。何しろ残っていたらこっちがやられるから。悪いけど、行くよって言ってね。その時が一番辛かったですよ。まあ、一番辛かったのはその時ですね」 「中国での戦い。それは私の想像をはるかにこえるものでした。毎日のように失われていく仲間の命。亡骸を埋葬することさえ許されず、ただ、ひたすら大陸を歩んでいったそうです。海を越えることなく、散っていった命。それは、戦場で戦う兵士だけではありませんでした」 「血の海だったという戦場。その中に、身を投じなくては生けなかった兵士たち。そして、突然、戦場に身を投じることになってしまった開拓団の方々。今年、改めて開拓団の生還者の方にお話を伺いました」 「逃げたきっかけは、わかんなかったんですよ最初。ソ連軍が入ってきたのを伝えてくれないんだから。16日まで部落に居たわけですよ。でも、ソ連が入ったのはもっと前ですよ。それがわかっていたら、もっと助かったと思う。ちゃんと連絡をくれれば」 「麻畑からは、みなさん自由に勝手に逃げなさいということになり、私たち三人はどこに行くか、場所が全然わからないんだから元気な人の後にくっついて逃げたんだけど、ついていけないんだ。こっちはお袋と姉と一緒でしょ。みんなにくっついて行くっていうのが実際に無理なんだよね。しかもお袋は体が弱かったから。ということで、いわゆる脱落だよね。で、脱落して、その日の何時ごろなんだろうな、やはり山のてっぺんにいた時にまた中国人に襲撃されて、そこで、うちのお袋は、お前男だから逃げろっていうんでね、お袋に怒られたっていう記憶は無いんですけどね、初めてそこで、すごい形相で早く逃げろって、とにかく逃げて生きろっていうんでね、すごい怒られた記憶があって、それでびっくりして、私は山の裾の畑の方に逃げたんですね。それで襲撃が終わったから帰ったら姉が見つかったんです。でもお袋は見つからなかった。それっきりお袋とは会えなかった」 「逃げ惑う中生き残るために、飯白さんのお姉さんは中国人に嫁いだそうです。その後、飯白さんは中国でお姉さんと一緒に暮らし、日本へ帰国したのは、10年以上後だったそうです」 「ある町まで行こうというので、お袋と弟ともう一人の弟と4人だね。妹は団の人におんぶしてもらっていたんだけど、途中ではぐれたんだね。その途中で次男がはぐれちゃったわけですよ。雨降ってきたりなんかしたから。もうどこをどう歩いたかそれもわからない」 「それくらい夢中ってことですね」 「もう何日か歩いて、食事は高梁畑で食べたりして、何日か歩いていたら、収容所に日本人がいるって言ってるみたいだったんです。そこに連れて行ってやるって。それでそこの収容所に入った。そこから新京に行くって電車で移動。お袋は電車の中で急に死にましたけどね」 「それはどうして?」 「具合悪かったんだよね。薬もないし。あんまり強くなかったから。(電車は)動いていますから、止まった時に、男の人達が仕方ないから、臭くなるからと言って棄てましたよ。埋めてないですよ。みんなそうですからね」 「両親を無くした金子さんは孤児として中国で暮らし、戦後まもなく日本に帰国されたそうです」 「みなさんはこうして満州で体験をされて戻ってこられたわけですけども、私の年代、私もそうなんですけども、学校では歴史については習いますけど、深くは知ることはできないですし、まだまだわからない部分がたくさんあるんですけど、経験されたから伝えておきたいことや何か伝えたいことはありますか?」 「戦争しないってことだ。自分の孫とか、それが出て行くって事は。行かなきゃならない時はあるんだと思う。守るためには。でもやっぱりやらないっていう」 「二度とあってはならないっていう。結論はそれだけですね」 「戦火の記憶。今では想像できないような悲しい過去が、この町にはありました。戦後70年を機に出会った多くの方々は、悲しい過去を二度と繰り返えさせたくない!と私に多くのことを教えてくださいました」 「知らないで通ってしまいましたけど、やっぱり知るという事が一番の力です。それがわかってからは、自分でやっぱりね。知らされないことって多いですからね。自分から知らなければいけないと思っていろいろ勉強はしました」 「間一髪で逃げたのが良かったなって思っています。本当に戦争というのは恐ろしいですし、戦争なんかしたらいけないなって思いますね」 「戦争がなければ、こんなような経験は無かったと思うんで、本当に戦争は二度とやってはいけないと思います」 「今言えるのは、絶対に戦争をしてはいけないっていう。特に若い人にはね。やっぱり平和を願っていろいろ行動して欲しい。行動しないとダメなんだって」 「あんな時代は二度とごめんだわ」 「本当に今で知らなかったんですけども、ここ最近でいっぱい戦争のことをいろいろな方に伺っているんですけど、こうやって伺って行くことで、知らないことがどんどんわかってきて、今当たり前だって思っていることが、本当に大切なことなんだなっていうことがこうやってお話できて、実感できて・・・」 「そのために、私たちはね、本当に楽しかったことだけじゃなくて辛かったことも嫌なこともね、みんなお話をしようと思っているの。正直に話をすることが大事なわけ。それが伝わるってことだと思うのね」
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